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【39話考察】九龍ジェネリックロマンス 蛇沼が言う「与えられることと奪われること」とは? ネタバレあり

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『九龍ジェネリックロマンス』第39話の考察感想(ネタバレあり)です。

前話(38話)の考察感想はこちら

各話の考察まとめはこちら


九龍ジェネリックロマンス 4 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

『九龍ジェネリックロマンス』39話は『ヤングジャンプ 2021 No.14』に掲載されました。

当記事では、

主人公を「鯨井」、工藤の元カノを「鯨井(前)」

行方不明になった方を「グエン(偽)」、蛇沼の恋人の方を「グエン(本)」

と表記しています。

『九龍ジェネリックロマンス』39話のあらすじ

朝からラブラブの蛇沼とグエン(本)。蛇沼が自宅から仕事で出るのをグエン(本)は見送ります。

蛇沼の今日の仕事は、テレビ局での生放送。番組のコーナーで、相談者の美容の悩みに答える先生としてゲスト出演をするのです。

相談者の悩みに、にこやかに対応する蛇沼。しかし、一緒にゲスト出演していた俳優が蛇沼につっかかります。

蛇沼のことを「与えられた人間」だというその俳優に対して、蛇沼が言ったこととは・・?

場面変わって、蛇沼の生放送を見ていた鯨井、工藤、楊明。3人は昼休み、一緒に店で食事をしていました。

すると、店員が鯨井たちに映画のチケットをくれます。その映画は『胡蝶の夢』。そのチケットを見て、どこか様子のおかしい楊明は、先に仕事に戻っていってしまいました。

残された鯨井と工藤は、一緒に会社まで話をしながら帰ります。話題は、蛇沼の生放送で起こったこと。

そして、鯨井は道中で金魚を売っている店を見つけ、駆け寄ります。楽しそうに金魚を見つめる鯨井に工藤は・・・。

楊明と映画が何か関係あるのかな?

『九龍ジェネリックロマンス』39話の考察感想(ネタバレ)

与えられることと奪われること。ジェネリックの意味とは?

「与えられることで奪われていることだってある」

蛇沼が生放送中に、突っかかってきた俳優に言った言葉です。とっても印象的な言葉ですよね。

蛇沼は二世社長ではありますが、愛人の子供ということもあり過去に苦労をしていそうです。

まだ具体的な描写はありませんが、庶民の生活にも慣れている素振りがあったし、最初からお金持ちで良い暮らしをしていたわけではないのでしょう。

そんな蛇沼が怒るのは分かりますが、生放送中に感情をむき出しにしたのは少し以外でした。(口ぶりは冷静でしたが)

蛇沼の「与えられていることで奪われること」は何なのでしょう。

社長としてのプレッシャー?それとも社長として振る舞うことによって消える自身のアイデンティティ?

そして、蛇沼に突っかかってきたゲストの俳優が、蛇沼に「二世はしょせん一世のジェネリック」だとも言っていました。

なるほど。そういう風にも考えられるのですね。

『九龍ジェネリックロマンス』の「ジェネリック」という言葉には色々な意味が含まれていそうです。

ここで、改めて「ジェネリック」の意味を考えてみたいと思います。辞書にはこんな風に書いてあります。

1.一般的であること。共通していること。
2.(商標名ではなく)一般名。総称。
3.新薬の特許期間の切れた後に、他社が製造する新薬と同一成分の薬。効能、用法、用量も新薬と同じ。
goo辞書より

普通に考えれば1の「一般的な」と言う意味で、「一般的なロマンス」と解釈できるでしょう。

しかし、作品を読み進めていくと3の「新薬の特許期間の切れた後に、他社が製造する新薬と同一成分の薬」のの意味と作中の内容が重なる感じがします。

薬がどうこうというよりは、「同じ成分でできているけど、オリジナルではないもの」「コピー品」と言った意味合いです。

そういう解釈をすれば、今回の蛇沼の話にもつながるし、鯨井も鯨井(前)のジェネリックだと言えます。

そして、九龍城砦自体も一度取り壊された後のジェネリック。

つまり、「ジェネリック=クローン」と考えられます。

楊明と映画『胡蝶の夢』

蛇沼の生放送を見ていた楊明は、蛇沼の「与えられることで奪われていることもある」という言葉に共感します。

楊明は、奪われているのは「自分」で、「誰かに用意された人生は、自分人生を奪っている」というのです。

それを聞いて、鯨井は鯨井自身の事を指しているのだと思いましたが・・・。

おそらく楊明が言った「自分が奪われている」というのは、楊明自身のことなのだと思います。

店で、鯨井たちが映画『胡蝶の夢』のチケットをもらった時、楊明は様子がおかしくなっていました。

おそらく楊明の過去と何か関係があるのではないでしょうか。

楊明は全身整形で元の姿を変えていますし・・・元の姿のままだと何らかの しがらみ があって自分の人生を歩めない事情があったのかもしれません。それが楊明にとって「自分を奪われること」なのかもしれませんね。

映画の女優さんと何か関係があるとか・・・。さすがにその女優さん=楊明ってことはないと思いますが(きっと年齢が合わないですよね?)、例えばその血縁者とか。

どこへも行けない金魚と工藤。

「奪われること」に対して、考え方はキャラクターによって様々なようです。

蛇沼・楊明・・・与えられることで奪われることもある。

鯨井・・・奪われているなら求めればいい。

工藤・・・求めるほど奪われるものもある。

どれもフワッとした答えだなあ。笑

というか概念的ですよね。まあ言わんとしていることは何となく分かるんですけど。

工藤が言いたいのはきっと鯨井(前)のことですね。鯨井(前)の影を追うほど、もうこの世にはいないと思い知らされる。そんなところでしょうか。

鯨井に「金魚を置いていくのか?」と問う工藤自身が、水槽に閉じ込められた金魚のようです。

たった一匹で、偽物だらけの九龍から出られない。どこへも行けない。

(工藤本物説推してます)

そしてそんな工藤と対照的に、鯨井は前向きな答え。とっても生きることに対してどん欲ですね。

「金魚とは最期まで一緒にいます」と言う鯨井に、工藤は一体何を思うのでしょうか・・・。

私は鯨井に、工藤を早く金魚鉢の外に引っぱり出してほしいと思うのです。

さいごに

楊明の過去がずっととっても気になっていました。

今回の事をきっかけに、今後 楊明にフォーカスが当てられるのかわくわくです!

次話(40話)の考察感想はこちら

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